ダライラマ六世、その愛と死

宮本神酒男訳

1 愛する者と新天地へ

 チベット南部のモンユル地区シャリツォにパガという村があった。チベットでは珍しくないが、きわめて貧しい僻村だった。

 雪山から吹いてくる氷柱のような風が骨に突き刺さった。人々は小さくて煤けた石屋に走りこみ、薪や牛糞をくべて、ようやく暖を取ることができた。

 しかしタシ・テンジンの家はまるで春が来たかのようだった。彼の心は囲炉裏の火よりも熱かった。
 この数日というもの彼は極度の興奮状態にあり、明けても暮れても心ここにあらずというありさまだった。麦焦がし、大麦酒、茯茶、バター茶、干し牛肉など準備は怠りなかったが、まだ何か足りないような気がして落ち着かず、家の中をそわそわ歩き回り、頭の中はといえば緊張した喜びのほかは真っ白だった。

 タシ・テンジンは善き人に会えば物腰柔らかく、悪き人に会えば剛直だった。かれは寺の中で仏典を学び、ペマ・リンパの密教に通暁し、密教大師と呼ばれることもあった。またたくさんの酒歌を歌えたので、近辺の人々から愛されていた。愛されていたといっても、その大半は感嘆であったり、共感であったりした。

この十数年、彼はすべてをかけて、老いた病気がちの父母の世話をしてきた。松柏が風雪に負けず、四季を通じて葉を落とさないように、彼はがんばってきたのだ。生活は苦しかったが、人に助けを求めることはなかった。

しかし今から三年前、両親が相次いで没したとき、葬式を開くために姉からいくらかお金を借りねばならなかった。両親の没後、家には彼ひとりが残された。十里余り離れた家に嫁に行った姉が唯一の親族だった。しかし彼はしだいに姉のもとを訪ねるのが億劫になっていた。

彼は孤独感を強め、家は大きくなかったが、がらんとした部屋の中を恐ろしいと感じた。同時にまた一種、解放感のようなものもあった。長年縛られていた両手が突然解かれ、自由になったかのようだった。
 このとき彼は新しい生活をはじめる必要を感じていた。彼はやっかいな作業も厭わず人の仕事を手伝い、遠い場所でもかまわず働いた。何ヶ月も帰らないこともあった。姉の借金を返さなければならなかったのだ。自分の家の修理も自分で行い、わずかばかりの蓄えもできた。

そんなとき、何の前触れもなく縁談の話がわいた。すでに齢四十とはいえ、青春はこれから始まろうとしていた。ただ彼はあくまで「天を恨まず人をとがめず」というおおらかな性格の持ち主だった。それに遅咲きの花はかえってその香りがうるわしいと言うではないか。

 タシ・テンジンがぼんやりと物思いにふけっているとき、ギイっと音がして戸があいた。びっくりして面をあげると、目の前に立っていたのはいかつい顔をした姉だった。
 いつの頃からか、タシは姉と会うたびにあることわざを思い出した――鶏の爪から油を取り、羊の角から肉をそぐ。彼は記憶の窓を閉じようとするかのように目をまばたかせ、そのようなことわざを二度と想起させないように努めた。

「アチャラ(お姉さん)、元気かい」

 姉はエヘンと喉を鳴らし、座布団に腰掛け、話すときはいつもこんな感じだが、威厳を高めようとしているようだった。彼女は部屋のなかをぐるりと見渡し、

「あんた結婚するって、それほんと?」

「そうだよ」

「いつだい」

「すぐだよ、正月」

「そりゃめでたいねえ」

「まあそうだ」

「あんたここに姉貴さまがいるってふうじゃないね」

「いまめでたい酒をもってくるよ」

「それで準備はできたのかい」

「うまくいってるよ」

「で、金はどっから来たんだね」

 そこまで聞いてタシ・テンジンは烈火のごとく怒った。腹は煮えくり返り、おさえることができなかった。

「ずっとおれがどんな貧乏な生活をしてきたか、お姉さんはよくご存知だろう。おれには貸し出せるような土地はないし、高利貸しするほどの金もない。頭を掻いても取れるのは髪の束だけ、身を掻いても取れるのはプル(毛織物)の端切れだけ。九十九の荷物があっても、痩せた牛は一頭だけ。この二本の腕だけでおれは生きているのさ。
 鶏より早く起きて羊より遅く床につく。一日たりとも休まず、働いてきたのだ。どうしてこんなおれが家を持ってはいけないのだ?」

 彼は両手をふるわせながら言った。

「金持ちの鍋は鉄かもしれんが、貧乏人の鍋だって泥でできているわけでもないのだ」

「いいかげんにして」と姉は立ち上がって言った。「この何年ものあいだ何をしてきたの。他人はともかく私にはわかるわ。ニンニクを盗んで食べてるんじゃないの。ニンニクのにおいがするもの。あんた盗ったんじゃあ……」

 タシ・テンジンが何を言おうと姉の疑念をとくことはできなかった。それどころか面と向かって「盗んだ」とさえ言ったのだ。あたかも金でできた仏像で自分の頭を殴ったかのように痛みを感じた。身内による侮辱だけにいっそう耐え切れなかった。姉がここに来たのは、もしかすると、べつのよからぬ考えがあってのことかもしれなかった。

 彼は冷静沈着に聞いた。「お姉さんは何が望みなんです?」

 姉は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、鉄を切るように言った。

「出ていって! すぐに、どこか遠くに。永遠に帰ってこなくていいわよ」

「ところでツェワン・ラモはどうしているのだ?」と彼は話をかえた。

「そんなこと知らないわよ。自分でたしかめに行けばいいじゃない」

「行く必要ないわ」とそこへ現れたのはツェワン・ラモだった。彼女は悠然と門から入ってきて、彼の腕をむんずとつかまえ、言った。

「不作は一年の災い、夫婦の不和は一生の災いって言うでしょ。私はずっとあなたのそばにいるわ。いっしょなら、苦い水だって牛の乳のように甘いわ」

 ツェワン・ラモの話は牛の乳のように甘く、甘露のように清く澄み、彼の心にしみわたった。

 彼女は小柄でチベット南方の面立ちをしていた。品徳があり、信仰が厚く、喜捨を惜しまず、たおやかな風情があった。後の人は彼女を名門の出と認識した。
 伝説によると、吐蕃建国の王ソンツェン・ガムボの後裔のなかに犬の口を持った者、あるいは角の生えた者などが現れ、不吉なしるしとして嫌われ、一族はチベット南部のモンユル地方に駆逐された。何代か経て、ガマ・ドルジェという者があり、アブディという女を娶った。土の犬の年、ふたりのあいだに生まれたのがツェワン・ラモだった。

「ツェワン・ラモ! ツェワン・ラモ!」と息をはずませながら若者がやってきた。

「ナンツォンパ兄さん、まあ坐ってください」とタシ・テンジンは慇懃に迎えた。あわてて木箱からカタ(絹の礼用スカーフ)を取り出してナンツォンパの首にかけた。

「兄さんですって? あなたは私より十歳も年上ではないですか」と言ってさえぎり、カタをわきに置いた。そのとき彼は窓のそばでタシ・テンジンの姉が空を見上げているのに気づいた。彼はカタを手に取り彼女の前に行き、

「アチャラ、先に来てらっしゃったのですね」と言った。

 アチャラ、すなわち姉はカタを受け取ると、仏前で祈った後、返礼のカタをナンツォンパの喉元に差し出した。それからまた窓際で空を見上げた。

「タシ・テンジンさん、それで妹と結婚する決心はできましたか」

「お兄さん、あなたこそお話することがあるのでしょう」

「私もじっくり考えました。いろんな条件について話し合いたいのです」

「お兄さん、どういうこと?」とツェワン・ラモが割って入った。

「タシ・テンジンさん、あなたは少なからず学問をされたかたです。三十三年前、ギャルワ・リンポチェ(ダライラマ五世)はあらゆる仏教徒が黄教(ゲルク派)に改宗するよう命ぜられました。盟友であるメル・リンポチェに黄教の布教を推進させたのです。
 われわれはすでに黄教に改宗したのですが、あなたの家は代々紅教(ニンマ派)を信仰していますね。もしあなたが私の妹を娶るなら、黄教に改宗してもらわねばならないのです」

「ご存知のように私は密教をまなびました。密教はお釈迦さまを信仰していないとでもおっしゃるのですか」とタシ・テンジンは反論した。

 ナンツォンパは絶句したが、羊角でできた鼻煙壷を取り出し、親指の爪で三度コンコンコンと叩き、三度鼻煙を吸い込むと、くしゃみをしたあと言った。

「最初の条件はかないませんでしたね。第二の条件ですが、婚礼の酒を贈っていただきたいのです。結納ですね。できますでしょうか」

「どれくらいがいいのですか」とタシ・テンジンは真顔で聞く。

 ナンツォンパは指を折りながら、「馬一頭、ヤク二頭、羊三匹……」と数え始めた。

 そのときツェワン・ラモはわっと泣き始めた。彼女は兄の服の袖を引っ張りながら、

「お兄さん、どうして無理なこと言うの? ちゃんとしてこと言って。これでは乞食が犬を棒で叩いてまた蹴っ飛ばすようなものだわ。どうして男らしくできないの?」

 ナンツォンパは妹を軽く突き飛ばし、言った。

「おれにさからうならおまえを嫁にやらないからな。条件を満たさない限りだめだ。それとも飛んで逃げるかい。鶏は飛んでも、飛んでも、せいぜい梯子の縄を切るくらいが落ちだ」

「水と乳をまぜると、金の杓子を使っても分離することなどできません」

そうツェワン・ラモがぴしゃりと言ったのは、弱い面を見せられなかったからだ。

 兄と妹のやりあいを見るうちにタシ・テンジンは傷ついた気持ちになった。彼は彼女の乱れた髪をおさめながら、やさしく言った。

「行こう」

 

 ツェワン・ラモはうなずき、腰をかがめて物を集め始めた。彼女はほとんど家庭の主婦のような気分だった。もっとも、正式に家に入ろうとしたとき、その家を去らねばならなかったのだが。彼女は披露宴のために用意した羊の腿肉をザンパ(麦焦がし)袋に入れ、焼茶用の銅鍋を運び出した。
 タシ・テンジンは中庭の牛のくびきをはずした。ふたりは黙々と準備をすすめた。山から落ちた石は元に戻らない。彼らの兄、姉の貪欲さはとどまるところがなかった。俗に言う、肉を食べた虎はまた飢える、しかしおのれの肉を食べることはできない、と。
 ところが彼らの兄、姉は妹、弟のからだを食べてしまったのだ。行こう、遠くまで行こう。全速力で駆けて行こう。根が腐っていたら葉も腐るだろう。その前に去るのはいいことだ。とはいえ心は傷ついていた。どうしたら幸福になれるだろうか。

 突然ナンツォンパが言い放った。

「おまえたちが身にまとっている服と背負っている食べ物以外、持って行ってはならない。ほかの物はみな置いていくのだ」

 姉がそれに唱和した。

「もし動かせるのなら、家ごと台車に載せたらいいさ」

 タシ・テンジンは手に持っていた牛を引く縄を地面に叩きつけ、ツェワン・ラモの手を引いて門から出て行った。

 

 冬の風が荒野を吹きすさび、丈の低い枯れ草はひゅうひゅうと震え慄いた。砂礫の上を四本の足が鈍重に、緩慢に進んでいった。冷ややかな陽光が灰白色の乱雲の中からときに明るく、ときに暗く射していた。荒野を高い影と低い影が隠れては現れた。
 行く人影はもちろん、牛や羊の姿さえほとんどなかった。世界は空々漠々としていた。遠くから二つ三つの物体が起き上がったり伏せたりしながら近づいてきた。それは五体投地をしながらラサへ向かう男女だった。

 彼らは自由を得たものの、家庭の団欒は失ってしまった。何も言わずひたすら歩き続けた。すでに甘い蜜は得ていたが、途方に暮れていた。
 昨日起きたことは心に刺さった刀のようだった。しかし郷里の人々が慰めのことばや激励のことばを投げかけてくれたのが救いだった。これらが彼らの苦痛をすこしでも和らげたのだった。
 ある人は自分の家の中の小屋を提供しようとした。ある人は旅費にと、銀貨を差し出そうとした。ある老人は、冬のあいだ、北に向かうと寒いので、温暖な南に向かうことを勧めた。ある人は涙を流しながら、彼らがふたたび戻ってくることを願った。なんといい人ばかりなのだろうか。

 彼らが村を去るとき、心傷つきながらも決然としたさまを見て、だれがとどめずにいられただろうか。いま、故郷が遠のけば遠のくほど、名残惜しいものが増えてくるのだった。母が毛糸をよるときに使った木槌、村の入り口のつるつるした大岩……、そういったものがなつかしくなり、生きているかのようだった。

 タシ・テンジンは何度も何度も振り返らずにはいられなかったが、涙に曇った目にはもはや故郷は映らなかった。ツェワン・ラモはただ彼の後ろについて歩くだけだった。ときにはものめずらしい前方の風景を見たり、左右を見たりしたが、後ろを振り返ることはなかった。おそらく振り返れば心の傷が深まると考えたのだろう。あるいはパガ村に後ろ髪をひかれる想いはなかったのだろう。
 タシ・テンジンは孝行息子であり、父母の愛を知っていたが、ツェワン・ラモには父母がなく、兄弟の温もりもなかった。放蕩で気移りのする兄から愛情をそそがれたことはなかった。どうやって二十一歳まで生きてきたのか不思議なくらいだった。なかば独立して生きてきたので、農務や家事に精通し、自分の見解を持ち、よく考え、女たちが他人のことをあれこれ言っているときには交わらないようにしていた。
 唯一、彼女たちとおしゃべりをして楽しいときがあった。タシ・テンジンの噂をしているときである。といっても口をはさむことはなく、心の中で育った感情が愛情として結実したのだった。

 沈黙が長くつづくと、しだいに我慢できなくなるものだ。タシ・テンジンは声を張り上げ、歌いだした。

 

真っ白い野の花の清らかなこと

それも雪のごとき蘇(バター)には及ばない

蘇は雪に似て芳香もあり

それでも娘の清純さには及ばない

 

つつじの紅は火のごとし

それも血のごとき紅の顔料には及ばない

紅顔料は血に似て光もあり

それでも娘のはじらいには及ばない

 

 ツェワン・ラモは思わず笑みを浮かべ、ほとんど聞き取れないような声で「それって私のことかしら」と訊ねて、歩を止め、愛情のこもったまなざしをタシ・テンジンに向けた。

「もちろん。ほかに誰がいるというんだい」

「あなたを巻き込んでしまったような気がするわ。苦しみを与えてしまったと思うの」

「故郷を離れる苦しみなど一滴の水のようなもの。もしおまえといっしょでなかったら、大海の苦しみを味わっていたと思う」

「もう家のことは忘れるわ。どこでも楽しいし、どこも我が家、慈しみだって、父母だってあるわ。そうでしょう?」

「そのとおり。楽しくやっていこう」

 と楽しくなって、タシ・テンジンは思わず歩を早めた。そしてみずからに言った。

「鷹の毛を何本かむしったところで大空の飛翔をさまたげることはできない」

 

 何日たったのだろうか、彼らは平坦で人の多い地方にやってきた。後日ここがタワン(現インド・アルナチャルプラデシュ州)のラワ・ユルスムであることを知った。この地の楊柳と故郷の楊柳が似ていたためか、彼らは親しみを感じていた。
 ナラ山の麓の小さな村で彼らは足を止め、黒い石三つを置いてかまどを作った。ツェリン・ラモは薪と牛糞をもらい、火をおこし、お茶を作り始めた。彼らはまた二つのお椀を取り出し、ザンパを食べた。そのとき六、七歳の男の子が走ってきた。よそ者を見て驚いたが、恥ずかしがったり、ひるんだりすることはなかった。

 タシ・テンジンは羊皮でできた風箱扇で火をつけながら男の子に聞いた。

「なんていう名前だい?」

「ガンツ」と男の子は喜んで答えた。「おっ母が言うんだ。おまえは足から先に生まれた(ガンツ)んだって」

 ツェワン・ラモは笑いながら、「ここはなんていうところなの」と聞いた。

「ウジェンリンって言うんだ。見えるだろう、あそこのお寺。灯明の数が星より多いんだって。知らなかった? よそから来たの?」

 タシ・テンジンとツェワン・ラモは互いの顔を見合わせ、うなずき、声を和して答えた。

「今日からここの人だよ」

 

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